私は親ガチャ・生活環境の影響を踏まえたうえで、貧困や最終学歴の8割以上はその人の自己責任だと考えています。
なぜ、人生を自己責任だと考えているかをまとめたので、親ガチャ、周辺環境の違いがあるから自己責任ではないと考えている人は、これを読んで、どう思ったかコメント残していただけると幸いです。
(この記事での自己責任は絶対的貧困や最終学歴に対する責任を指しています。)
ただ、私の考えが絶対に正しいと思っているわけではなく、この話題に関しては一度とことんまで突き詰めて自分の中に落とし込みたいと思っていたので、この記事を書きました。(他の人の考え方を受け入れ、アップグレードしていきます)
コメント欄で、あなたの考えなど書いていただけると幸いです。
この話をする上では自分の環境、親についての情報等を開示しておく必要があると思うので、少しだけ公開します。
私の環境情報
私は関西の田舎に一軒家を持つ、両親のもとに一人っ子として生まれました。私が幼稚園児ぐらいのときにこの一軒家がたったと記憶しています。
父は優秀ですが、就職氷河期に当たったため、おそらくみなさんが聞いたこともない中小企業につとめ、年収は中央値にいかないぐらいだと思います。
今はしていないですが、子供の時、母は専業主婦のかたわら、内職をして家計を助けていました。
父は国立大学出身で、母は大学名を母以外から聞いたことがない大学の出身でしたが、海外に留学経験があり、私に子供の時から英語教育をしてくれる、教育への理解が深い人たちでした。
このため、小学校では習い事を、中学では塾に、更には1年間大学浪人をさせてもらって大学院まで行かせてもらいました。
子供ながら自分の家があまり裕福な家庭ではないと感じていたため、今のような節約志向のお金を使わない過ごし方を早い時期から、意識していたような気がします。
提示できる情報は以上となり、私自身の親ガチャは当たりの部類だと考えています。
親ガチャ、環境の影響
いわゆる毒親という人達を見たことがないし、正直ピンと来ていないところがあることと、どうしようもないと思われる環境を理解しきれていないことは先に言っておきます。
あと、考えを書いていく際に「です・ます調」よりも「だ・である調」の方がしっくりくるので「だ・である調」で書いていきます。
まず、自己責任論について話すとき必ずと言っていいほど出てくる親ガチャ、環境が違うからといった理由で自己責任を否定する主張について考えていく。(再度確認 この記事での自己責任は絶対的貧困や最終学歴に対する責任を指しています。)
誰の子供として生まれたか、自分がどのようなところで生きてきたかといった自分の周りの環境は、現在の経済状態や最終学歴にとても影響を及ぼしているのは確かだと思う。
ただ、自分の現状をこういった自分で選ぶことができなかった環境のせいにして、すべて済ませてしまうのは違うのではないか。
容姿、持っている才能、誰の子供として生まれたか、そういったことは誰一人選ぶことはできず、同じではない。
つまり、スタートラインは全員違い、平等ではない。そして、目の前に広がっている人生というコースの難易度も違うことは明らかである。
高収入の親の元に生まれれば、子供の最終学歴や収入が高くなりやすいことは、データとしても示されている。
以上を踏まえたうえで、キツイ言い方になるかもしれないが、私の考えは次の通りだ。
環境が違うことなんて当たり前で、スタートラインに恵まれた人たちに追い付きたいなら、その人達よりも努力しなければならない。
恵まれた人たちと同じ努力量で横に並べないなんて不公平だと思うかもしれないが、必要な努力の量と方向性が人によって違うのが、現実なのだ。
そして、努力が実るかもわからない中で、努力をし続けることはとても難しい。
私にはできなかった。だからこそ、今の立ち位置、現状を受け入れているし、自分の現状を自己責任だと考えている。
この考え方はしんどいし、他人にあてはめると、私がこれだけ頑張っているから、あなたも同じかそれ以上に頑張れと言っているように聞こえる。
だから、他人にこの考えを押し付けるを気はないし、あくまで私はこう考えていますというものに過ぎない。
未来は現在の選択で決まるからこそ、自己責任
会社に行く、ご飯を食べる等、無自覚のうちに行っている行動や、自覚して行っている趣味の活動等、人は日常生活で多くの選択をしている。
その無数の選択を通して、今の自分が出来上がっている。
もしかしたら、過去の何かしらの選択がひとつ異なるだけで、考え方、現状などは大きく異なっていたかもしれない。
ここで言いたいことは、自分の未来は現在の自分の選択によって決まっていくということ。その結果がどうであれ。
その選択が、気づかないうちに誰かの影響を受けていたとしても、無自覚であったとしても最終的にする・しないの選択をしたのは、その人になってしまう。
選択の時点で、どれだけ情報を持っていても一切予期できない可能性までもこの考えに含めてもよいかは、自分の中でも結論付けられていない。
ちょっと話がそれたが、15歳以上の5体満足の日本人なら、今の環境でどう生きるかを選ぶことはできるはずである。環境を変えないということも一つの選択をしていることになる。
もし、今の環境が嫌ならば、すべてを捨てて投げ出したり、逃げてしまえばいい。
そして、新しい環境でアルバイト生活から始めればいい。
生活保護を受けて生活してもいい。
社会的弱者を助けている人たちの所に相談に行ってもいい。
怪しい情報も多いけど、稼ぐための方法がネットで公開されているから、それを始めてもいい。
気づいていないだけでいろんな選択肢があり、どれを選ぶかは自分次第である。
周りに助けてくれる人がおらず、いろんな選択肢があることに気付かない人もいるだろう。でも、調べるという選択肢すら出てこないというのは、現状を変えようと思っていないように見えてしまう。
結局のところ、上を見てもキリがないし、下を見てもキリがない、他人と比較することには意味がない。
自分が現状に満足できるかどうかだけが大事なことなのだと思う。
現状に満足できないのであれば、努力し続けるしかない。
努力し続けることで環境は変わっていく。
ただ、努力し続けることはつらいし、何も考えないことが楽なのもわかる。
環境を変えるための努力をどこまで許容できるか、どの選択をするのかといったことを最終的に決めるのは自分自身なのだから、自分の事に対する8,9割の事は自己責任なのだと思う。
残りの1,2割は自分の力ではどうしようもないこともあるから。
ただ、自分の力でどうしようもないことだけのせいで現状が決まることはない。そこには何かしら、自分の意思を働かせる余地が残っているはずだから。
スタート位置が悪ければ人並み以上に努力する必要があるかもしれないが、日本では絶対的貧困からは抜け出すことはできるはずである。
ただし、努力の方向性が間違っているとその努力は無駄になってしまうため、努力の方向性だけは間違えず、努力し続けていく必要がある。
今まで書いてきた考え方は、個人に向けた、現状から這い上がる為の考え方の紹介であって、社会的弱者を助ける必要がないとか、社会としてどうあるべきかの話をしているわけではないことだけは言っておく。
自己責任について考えてみて思ったこと
こうした議論がなくならないのは、自己責任という言葉だけでは責任の所在が自分にあるかないか、つまり0か100かでしか語れないからだと感じた。
自己責任ではないと言っている人たちも、その人の責任の割合が0だとは思っていないはずで、逆もまたしかりである。
状況や現状も人によって違うから、責任の割合を出そうとしてもそこからさらに個別に考えていかないといけない。
こうした議論をする上では、責任の所在がどれだけの割合でその人にあると思っているかまでも明示しないと、会話がかみ合わないことが増えるだろう。
まあ、当の本人たちにとって、責任の所在が自分に何割あろうと、その数値には意味がなく、周りがとやかく言うときにしか意味を持たない気もする。
コメント